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小説の感想、解説を書いていきます。

【短編】『日々移動する腎臓のかたちをした石』村上春樹

 

 

村上春樹の『東京奇譚集』の第三作目です。

 

前回、前々回と引き続き村上春樹のレビューをすることになります。

 

久々に読むとやっぱり面白い村上春樹

 

読みやすい文章に、何気ない現実。そこにほんのりミステリアスな雰囲気を携えた世界が魅力的です。

 


村上春樹の文学に、あからさまなファンタジーの要素はほぼないといってよいでしょう。

 

始まりから中盤まで、容易に想像できそうな日常が続きます。

 

今作は小説家の主人公が、人生において大きな意味を占める女性に出会う物語です。

 

「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という格言から物語は始まります。

 

その言葉を父親から聞かされた主人公は、今作で知り合った女性に対して、その「本当に意味を持つ女」として相応しい存在であることを自覚するのですが、それに自覚したのはすでに女性が目の前から去った後で、彼女が消えてしまってからは、淡い焦燥感に満たされてしまう。

 

そんなお話です。

 

 

主人公が女性と出会い、彼女の職業が何かすらも知らない、あまり素性の知れない存在でありながらも、主人公の中では大きな意味を占めていく。

 

それと並行して、彼は自身の小説を書いていくのですが、その現実とは交わらない二つの世界が、どことなくリンクしそうなものに思える不思議があります。

 

あらすじを彼女に話し、彼女とたびたび出会い、身体を重ね、小説を書き上げていく。

 

そして最終的な完成を目前にして彼女は消えてしまうのです。

 

まるで主人公の小説の完成を待っていたかのように。

 

 

主人公が描く物語には、登場人物の女医が拾った腎臓の形に似た石がキーアイテムとして表現されています。

 

部屋に置いてあるだけの石が、まるで自我を持っているかのように、いやむしろ彼女の無意識を反映しているかのように、彼女のいない間に部屋を移動しているのです。

 

そして彼女はあるきっかけからその石を捨てるのですが、石は再び彼女の部屋の中で待ち構える。

 

そんな物語となっています。

 

 

小説を書く主人公が、物語の完成を迎えた時に消えた彼女。

 

小説の中の女医が、あるきっかけの中で石を捨ててもまだ戻ってくる、捨てられない存在。

 

この二つの流れには交わりのようなものを感じざるを得ないのですが、しかしその答えは容易ではありません。

 

村上春樹特有の、得体の知れない、人智の及ばない因果が巡っているようです。

 

 

 

短編としてよくできていますが、個人には長編作品として描かれてもいいものに思えました。

 

 

【短編】『ハナレイ・ベイ』村上春樹


昨日に引き続き、村上春樹の短編を紹介します。

 

タイトルにありますハナレイとは、ハワイのカウアイ島の町の名前だそうです。サーフィンやフラダンスが盛んな町で、日本でもサーファーがよく訪れるところとなっています。

 

今作はそのハナレイが舞台となります。

 


ハナレイで息子を亡くした母親が、現地へ向い、さまざまな人と交流をして、日本に帰ってくる。

その中で風来坊だった息子のことや、勉強をしながらもドロップアウトしてピアノに専念した若い頃の自分を思い出していきます。

途中で息子ほどの年齢の日本人の若者二人組に出会い、何も知らないで日本から来た彼らに対して、やれやれといった調子で彼女は手助けをします。

 

 

村上春樹の小説らしく、文章は軽々しいようなもので、ビーチを舞台としたことも相まって読みやすいですが、どこか得体の知れないような影もまた垣間見えます。

 

 

面白い短編小説全般に言えることですが、やはり文章に冗長めいたところはなく、はっきりと伝えたいところ、曖昧な答えのないところも無駄がありません。

 

 

現代の短編純文学のお手本といったところでしょうか。

 

 

村上春樹らしい話ですが、生々しいセックスのシーンなどはありませんので、これまた村上春樹初心者におすすめの物語です。

 

【短編】『偶然の旅人』村上春樹

現代において、日本で代表的な作家を一人挙げるとしたら、村上春樹の名前は候補になるのではないでしょうか。

私たち20代の人間でも名前くらいは聞いたことある人は多いかと思います。

巷ではノーベル文学賞を受賞するのではないかといった、そんな噂も流れている日本を代表する作家です。

 

 


私たちよりも上の世代の人間には村上春樹の凄さがわかるかもしれませんが、いかんせん私たちの世代ではその凄さが伝わっていないように感じます。

読書を始めたての人が、村上春樹の名前を知り、代表作である『ノルウェイの森』を読み始めて、よく分からないままに読み終えてしまう、そんな流れが予想されるわけです。

実際、私もそんな流れで村上春樹を知りました。

そして特別熱中することもなく通り過ぎたのです。

 

私が村上春樹の凄さを知ったのはもっと別の長編作品になるのですが、その話はまた今度で。

 

 

 

今回は短編作品である『偶然の旅人』を紹介していきたいと思います。

村上春樹の文章は、少しクセがあると思う方もいるかもしれませんが、基本的にはそうそう読みづらい形にすることもなく、割と素直に表現しているので、おしゃれに聴こえがちなワードセンスに煙たさを覚えなければ大丈夫です。

村上春樹に対しての世間イメージは、「おしゃれなジャズを聴きながら毎日パスタを食べる主人公が出てくる話ばかり書いている作家」というものになりがちですが、いや実際そうなのですが、私としてはもっとシビアな村上ワールドにスポットライトが当たって欲しいと感じております。
そんな村上春樹ですが、彼の短編小説は個人的に大好きだったりします。

長編は長編でまた面白いのですが、短編はまた別の味があります。

『偶然の旅人』は、短編の中でもまた特に読みやすく、村上春樹には珍しくオチがはっきりしている作品です。

 

 

作者本人が読み手に直接語りかける場面から始まり、この話がノンフィクションであることを前提として説明した上で物語へと導入されます。

そして村上春樹自身が知人から聞いた、偶然が醸し出した奇跡のような出来事についてのエピソードが語られるのです。
偶然というものが、ただの巡り合わせの産物でしかなくとも、どこか因果的な運命として着目せざるを得ず、私たちの心に不思議なときめきをもたらします。

俯瞰してみるとただの自然の成り行きの一つなのですが、その偶然の出来事から繋がるドラマチックなものが、人の感動を呼ぶのです。

 

 

この話を50ページほどでまとめられている、その作者の手腕もまた魅力的ですし、村上春樹という作家を知る上でもおすすめの作品です。

 

個人的にはノルウェイの森よりも初心者におすすめでございます。

 

 

是非読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

【短編】『空の怪物アグイー』大江健三郎

 

 

小説には、その作家が強く意識しているものが物語によく登場します。

 

たとえば浅田次郎でしたらギャンブルが好きですので、パチンコ屋の店内とか、競馬場とかが場面として扱われるイメージです。

 

小川洋子の『博士の愛した数式』を読むと、あからさまにこの作者は阪神タイガースを贔屓にしているのだと明白になります。

 

そして、今回もまた大江健三郎の短編について語るのですが、彼の小説では度々、脳に腫瘍を患わせて産まれた赤ん坊が登場します。

思いつくものといえば、長編作品の『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『新しい人への手紙』などでしょうか。

 

これは、大江健三郎自身の体験に基づいているらしく、彼の息子の大江光が脳ヘルニアを患って産まれてきたことからきていると考えられます。


今作品では、主人公の雇用主である、空からカンガルーほどの大きさを持つ怪物が降り立つ妄想に囚われている、音楽家のDという男の過去に、その赤ん坊の悲劇が描かれています。

 

赤ん坊は、まるで頭が二つあるのかとも思われるほどに腫れ上がった腫瘍を持って産まれました。この巨大な脳腫瘍が赤ん坊が助かる見込みがないことを悟らせます。

そして最終的には赤ん坊を安楽死することにしたのですが、なんと腫瘍は手術すれば治る可能性があった症状のものだったのです。

Dにはその時の記憶がトラウマのような形に残っているらしく、空から怪物が降り立つ妄想に囚われているのです。


学生である主人公は、そんな彼の付き人として雇われ、物語が展開していきます。

 

結局その怪物の正体は、死んでしまった赤ん坊をモチーフとした存在です。

その架空の存在に対してレスポンスを返すDは、現実での人との交流があやふやで、面倒をみる看護師や主人公に対しても反応が希薄だったりします。

彼は現実に生きている意識も薄く、自己防衛のような形で妄想の怪物に取り憑かれているのです。


過去のトラウマや罪悪感が、今の顕在している意識に強く起因してくる感覚は万人が持っているも過言ではないでしょう。

アドラー心理学の面では、トラウマに対しての否定的な意見が割と目立ってはいますが、私個人としてはあまり賛同できなかったりします。

 

私たちは過去に生きた形跡を記憶として保持しています。


昔のことでもはっきりと覚えていて、それが今の自分に影響を与えていることもあれば、自覚することの難しい、記憶すらもあやふやな幼い頃の出来事が今でも自分を蝕んでいることもあり得ると思うのです。


私もきっと持っていることでしょうし、しかし何が原因で、今の苦手なものがあるのか、それは定かではなかったりするわけです。


今作では意識のはっきりしている成人の男性が被ったトラウマになるので、その原因もはっきりとはしているのですが、その出来事自体が重い内容となってますので、払拭することが難しいものになっています。

 

最終的にDはこの妄想に取り憑かれた自分に対して、ある一つの選択を下すのですが、それは読んでみてからのお楽しみということで。

 

では

【長編】『コインロッカーベイビーズ』村上龍

 


多忙により読書をする時間がまともにとれないということで、昔愛読していた小説を語っていこうかと思います。


村上龍が作家デビューしてまもない頃に執筆したこの『コインロッカーベイビーズ』ですが、話の内容や、1972年頃に社会問題となっていた、産んだ赤ん坊をコインロッカーに置き去りにする「コインロッカーベイビー」といわれる事件の影響もあって、発表当初は話題になりました。

 

私が今作を読み始めたきっかけは、the pillowsのGazelle cityという曲のタイトルが、今作品の登場人物から肖ったものと知ってからです。

 


私はthe pillowsがかなりお気に入りなのですが、このバンドのボーカル、山中さわおが高校の頃にコインロッカーベイビーズを愛読していたという話を聞いて、当時学生だった私も読んでみることにしました。

 


『コインロッカーベイビーズ』では、村上龍の文学センスが全体に行き渡る、グロテスクと退廃にまみれた少年たちの成長が延々と続いていきます。

 


そのストーリーには幸せも不幸もない、無味乾燥な具合が独特の魅力を醸し出しています。

 


コインロッカーに捨てられたキクとハシは、母親に抱かれた経験のなさから、大人へと成長していきながらも社会の歯車に馴染むこともありません。ただひたすら己の求めるものに従うままに、暴力に走ったり愛人と身体を重ねていきます。

 

 

村上龍の文章は、かなり単調なリズムがひたすら続きていくものですので、読む人にとっては退屈に感じるかもしれません。

 

舞台や情景はめまぐるしく変わっていくのに反して、文章の調子はただ冷静なまでで、ある意味温度差があります。

 

それがまた『コインロッカーベイビーズ』の色褪せた世界観に拍車をかける形となっているように自分は感じるのですが、書き手としてのテクニックをあえて殺している、まさに神の視点からの実況ともいえそうです。

 

初めて読んだ時は謎の空気感とストーリーの展開に、頭の方が付いていけなかったです。

 

一体この本の面白いところはどこなのか、何を伝えたいのか、そもそもこの小説のジャンルは?謎に満ちたこの作品をとことん疑い、色んな考察を重ねていたものです。

 

結局この作品に限らず、文学作品に最良の答えは用意されていません。ジャンルというものは「敢えて」分類されただけにすぎず、どう読んでいくのかは読み手の自由だったりします。

 

『コインロッカーベイビーズ』はそんなことに気づかせてくれた作品です。

 


私はいつも、暑苦しい夏の日にこれを読みたくなります。

 

『コインロッカーベイビーズ』に描写される、廃墟となった炭鉱の街や、蒸し暑い東京の摩天楼、小笠原諸島など、ジメジメした爽快感のない夏のイメージが強いからです。

 

それに加えて、村上龍の文章がまた湿度を増すように暑さを感じさせてくれるのです。

 


今年の夏もまた読もうかと。

【番外】「振り返りみたいなもの」

 


2021年にもなり、今更ブログを書きはじめることになりまして、少し時代遅れだという声が聞こえなくはないのですが、そもそも私自身が時代の流れにうまく乗れる生き物でもないものですので、古いも新しいもあったものではありません。これまでに載せてきた記事の通り、読んでいる小説はどれも昔のものですし、先見の明のなさは相変わらずでございます。最近の直木賞芥川賞の作品もまともに読めていないどころか、誰が受賞したのかも定かではないわけです。おそらく、普段全くテレビを観ることのない私よりも、その辺のテレビっ子な少年たちの方がよほど詳しいでしょう。ところで直木賞芥川賞というものは、そんなにすごいものなのでしょうか。いつもテレビで取り上げられている印象ですが、この二つの賞のどこに祭り上げられる点があるのか、誰か教えてほしいです。なんならまた調べてみても面白そうですね。

 

と、まあこういう形で、私はいつも何かに対して疑問が浮かぶことが多々あります。そして調べてみたい事柄を見つけることが多いくせに、次から次へと色んなことが気になることが頭に入り込んでしまうわけですから、最初に浮かんだ疑問は知らぬ間に、浮雲のように漂って彼方に行ってしまっているありさまです。

こういう人を世間では集中力のない奴だといいます。
そんな私でも、短いながら読書ブログなんてものを続けることができました。別に誰のおかげでもなく、ただの因果がなせる偶然の産物、たまに訪れる運の良さが施した気まぐれだったりします。なので誰に感謝を告げることすらもままならない、強いて言うならブログを書いてみてはとアドバイスをくださったJさんと、この因果的な巡り合わせを気まぐれに起こした訳の分からない形而上的な概念に感謝します。こんなこと書いてますが、私は別にスピリチュアルな傾向を好んでいるわけではありません。ただ、たまにこうして意味のあるようで意味のない文章も書いてみたいのです。そして正直な話、今読んでいる永井荷風の短編集が行き詰まりすぎてレビューを書く自信がないこともここで白状しておきます。そしてブログを始めた頃よりも仕事が少し忙しくなってしまい、読書に対しての集中力が切れてしまったのもまた弱音としてここに記します。私の頭の中の傾向なのですが、ある程度情報量をぶち込んでしまうと、そのcapacityを超えてしまうような形で、まったくもって読書に集中できなくなってしまいます。この傾向は結構昔からあるみたいでして、その先はいくら頑張っても、ただ文面を目で追っているだけの無駄な作業にしかなりません。そしてそのcapacityを超える読書量も一定ではなく、ひたすらに面白いものを読んでいると無限にも思われる脳内空間の広さに驚くあまりなのですが、今のブログを書いている時みたいに、ちまちまと種々数多に短編を乱読しているとあっという間にパンクしてしまうみたいです。文章と一言で言いましても、一つ書き手が変わるだけで読みやすさやニュアンスの伝達具合、共感性があっという間に狂わされてしまい、別の波に乗り移るのにいちいち時間がかかってしまいます。たとえるなら短い時間の中でたくさんの種類の楽器の練習をしているような気分です。今日はピアノ、明日はギター、明後日はクラリネットと、相当な音楽的才能がなければうまく順応できないでしょう。

さながら今の私はその訓練をしていることになります。今日は谷崎、明日は大江、明後日は永井と...。ああ、自分の学のなさはあらゆるところで、私の道を阻害します。勉強してこなかったことに対して後悔することは1ミリもありませんが、私はもっと学ぶべきことがあるのではないかと、無意味な強迫観念に囚われることがあるのです。それが今私の前に立ちはだかっている永井荷風なのですが、別にこれといって難しい作家ではないはずです。強いて言うなら日本史や世界史、そして当時の文学界の著名人や風俗の専門用語がずらりと並んでいて、感想をいうもクソもなかったりします。おそらく作品の内容としては単純なのですが、何やら江戸文学めいた文章のタッチが、私の感性の入り込める余地を阻んでいるのがようように伝わってきます。だからまあ、素直に分からない言葉を調べていけばいいだけの話なのですが、なんせ集中力が皆無なものでして...。

 

というわけで、今の私はただの訓練性、見習いブロガーの見極め検定中といったところでしょう。とりあえずは今日は寝て、明日の多忙に備えて、そして明日もまたブログを書きます。


おやすみなさい。

【読書中】『カラマーゾフの兄弟』/フョードル・ドストエフスキー

 

 


あまりにも長い作品ですので、読み終えるまでにこうして何度か感想を考えていかないと、まとめきれないような気がしました。

しかしそれをしたとて、この文学界の大傑作とも言われているドストエフスキーの生年最後の作品は、うまく語れる自信もありません。

それでも、文庫本にして全5巻あるうちの4巻までは読み進めることができましたので、少し語ろうかと思います。

 

ドストエフスキーの作品全体に言える特徴として、登場人物の長い台詞があります。

代表作の一つ『罪と罰』でも、序盤に数ページはあろうかという長さでがなりたてるシーンがあったりしますし、彼の作品では基本的に、登場人物が言語化していく内容から読み取れるものが多々ありそうです。

 

今回の作品では、メインのカラマーゾフ3兄弟の身の回りに起きる出来事を軸として話が進んでいきます。

情熱的な長男、クールで知性のある次男、キリスト教信者でカリスマ的人気のある三男が織りなすストーリーです。

一応主人公のポジションは三男に充てられそうな感じですが、長男、次男をメインとした話が長く続いたりすることもあるので、さまざまな人物の視点を楽しむことが良いかと思います。

 

この小説は、ネット等で調べてみると面白いのですが、文学界では非常に高い評価を得ています。

かの村上春樹もかなり贔屓に見ている作品のようでして、世界中でも人気のある作品です。

その情報を鵜呑みにしてチャレンジした方も沢山いることでしょう。

そして多くの人がその話の長さ、難解なテーマや現代文学との温度差に嫌気がさして、読むのを断念したのではないかと、容易に想像がついてしまう次第です。

 

私も今のところ、そうそう面白い小説だという実感もありませんが、この作品一つにさまざまなジャンルが組み合わさったものであることは何となくわかる気がします。

 

主に目立つところはキリスト教のあり方が問われている点ですが、他にもカラマーゾフ親子が交錯する恋愛小説的なところ、それに伴った一つの殺人事件をめぐる推理小説的なところなど、多岐にも渡るジャンルが魅力です。

その上、全体的な雰囲気は変わることなく、ロシア文学独特の雰囲気が味わえるものとなっております。

 

しかし、やっぱ正直言って難しいものは難しいです。

私も背伸びしてたくさんの本を読んできましたが、難解なロシア語を和訳された、200年ほどの前の文章を読み進めたとて、そうそう魅力がわかるわけではありません...。

 

でもその感想を大切にするのもまたありかなと思います。

それでまた気づく魅力もあるだろうし、これから先きっとまたリベンジすることもあるでしょう。

文学はただの文章ですが、その分一つ簡単に説明できるものではないことは百も承知のつもりです。

 

 

とりあえずはまた続きを読もうかと。