気まま図書館

小説の感想、解説を書いていきます。

【番外】「振り返りみたいなもの」

 


2021年にもなり、今更ブログを書きはじめることになりまして、少し時代遅れだという声が聞こえなくはないのですが、そもそも私自身が時代の流れにうまく乗れる生き物でもないものですので、古いも新しいもあったものではありません。これまでに載せてきた記事の通り、読んでいる小説はどれも昔のものですし、先見の明のなさは相変わらずでございます。最近の直木賞芥川賞の作品もまともに読めていないどころか、誰が受賞したのかも定かではないわけです。おそらく、普段全くテレビを観ることのない私よりも、その辺のテレビっ子な少年たちの方がよほど詳しいでしょう。ところで直木賞芥川賞というものは、そんなにすごいものなのでしょうか。いつもテレビで取り上げられている印象ですが、この二つの賞のどこに祭り上げられる点があるのか、誰か教えてほしいです。なんならまた調べてみても面白そうですね。

 

と、まあこういう形で、私はいつも何かに対して疑問が浮かぶことが多々あります。そして調べてみたい事柄を見つけることが多いくせに、次から次へと色んなことが気になることが頭に入り込んでしまうわけですから、最初に浮かんだ疑問は知らぬ間に、浮雲のように漂って彼方に行ってしまっているありさまです。

こういう人を世間では集中力のない奴だといいます。
そんな私でも、短いながら読書ブログなんてものを続けることができました。別に誰のおかげでもなく、ただの因果がなせる偶然の産物、たまに訪れる運の良さが施した気まぐれだったりします。なので誰に感謝を告げることすらもままならない、強いて言うならブログを書いてみてはとアドバイスをくださったJさんと、この因果的な巡り合わせを気まぐれに起こした訳の分からない形而上的な概念に感謝します。こんなこと書いてますが、私は別にスピリチュアルな傾向を好んでいるわけではありません。ただ、たまにこうして意味のあるようで意味のない文章も書いてみたいのです。そして正直な話、今読んでいる永井荷風の短編集が行き詰まりすぎてレビューを書く自信がないこともここで白状しておきます。そしてブログを始めた頃よりも仕事が少し忙しくなってしまい、読書に対しての集中力が切れてしまったのもまた弱音としてここに記します。私の頭の中の傾向なのですが、ある程度情報量をぶち込んでしまうと、そのcapacityを超えてしまうような形で、まったくもって読書に集中できなくなってしまいます。この傾向は結構昔からあるみたいでして、その先はいくら頑張っても、ただ文面を目で追っているだけの無駄な作業にしかなりません。そしてそのcapacityを超える読書量も一定ではなく、ひたすらに面白いものを読んでいると無限にも思われる脳内空間の広さに驚くあまりなのですが、今のブログを書いている時みたいに、ちまちまと種々数多に短編を乱読しているとあっという間にパンクしてしまうみたいです。文章と一言で言いましても、一つ書き手が変わるだけで読みやすさやニュアンスの伝達具合、共感性があっという間に狂わされてしまい、別の波に乗り移るのにいちいち時間がかかってしまいます。たとえるなら短い時間の中でたくさんの種類の楽器の練習をしているような気分です。今日はピアノ、明日はギター、明後日はクラリネットと、相当な音楽的才能がなければうまく順応できないでしょう。

さながら今の私はその訓練をしていることになります。今日は谷崎、明日は大江、明後日は永井と...。ああ、自分の学のなさはあらゆるところで、私の道を阻害します。勉強してこなかったことに対して後悔することは1ミリもありませんが、私はもっと学ぶべきことがあるのではないかと、無意味な強迫観念に囚われることがあるのです。それが今私の前に立ちはだかっている永井荷風なのですが、別にこれといって難しい作家ではないはずです。強いて言うなら日本史や世界史、そして当時の文学界の著名人や風俗の専門用語がずらりと並んでいて、感想をいうもクソもなかったりします。おそらく作品の内容としては単純なのですが、何やら江戸文学めいた文章のタッチが、私の感性の入り込める余地を阻んでいるのがようように伝わってきます。だからまあ、素直に分からない言葉を調べていけばいいだけの話なのですが、なんせ集中力が皆無なものでして...。

 

というわけで、今の私はただの訓練性、見習いブロガーの見極め検定中といったところでしょう。とりあえずは今日は寝て、明日の多忙に備えて、そして明日もまたブログを書きます。


おやすみなさい。

【読書中】『カラマーゾフの兄弟』/フョードル・ドストエフスキー

 

 


あまりにも長い作品ですので、読み終えるまでにこうして何度か感想を考えていかないと、まとめきれないような気がしました。

しかしそれをしたとて、この文学界の大傑作とも言われているドストエフスキーの生年最後の作品は、うまく語れる自信もありません。

それでも、文庫本にして全5巻あるうちの4巻までは読み進めることができましたので、少し語ろうかと思います。

 

ドストエフスキーの作品全体に言える特徴として、登場人物の長い台詞があります。

代表作の一つ『罪と罰』でも、序盤に数ページはあろうかという長さでがなりたてるシーンがあったりしますし、彼の作品では基本的に、登場人物が言語化していく内容から読み取れるものが多々ありそうです。

 

今回の作品では、メインのカラマーゾフ3兄弟の身の回りに起きる出来事を軸として話が進んでいきます。

情熱的な長男、クールで知性のある次男、キリスト教信者でカリスマ的人気のある三男が織りなすストーリーです。

一応主人公のポジションは三男に充てられそうな感じですが、長男、次男をメインとした話が長く続いたりすることもあるので、さまざまな人物の視点を楽しむことが良いかと思います。

 

この小説は、ネット等で調べてみると面白いのですが、文学界では非常に高い評価を得ています。

かの村上春樹もかなり贔屓に見ている作品のようでして、世界中でも人気のある作品です。

その情報を鵜呑みにしてチャレンジした方も沢山いることでしょう。

そして多くの人がその話の長さ、難解なテーマや現代文学との温度差に嫌気がさして、読むのを断念したのではないかと、容易に想像がついてしまう次第です。

 

私も今のところ、そうそう面白い小説だという実感もありませんが、この作品一つにさまざまなジャンルが組み合わさったものであることは何となくわかる気がします。

 

主に目立つところはキリスト教のあり方が問われている点ですが、他にもカラマーゾフ親子が交錯する恋愛小説的なところ、それに伴った一つの殺人事件をめぐる推理小説的なところなど、多岐にも渡るジャンルが魅力です。

その上、全体的な雰囲気は変わることなく、ロシア文学独特の雰囲気が味わえるものとなっております。

 

しかし、やっぱ正直言って難しいものは難しいです。

私も背伸びしてたくさんの本を読んできましたが、難解なロシア語を和訳された、200年ほどの前の文章を読み進めたとて、そうそう魅力がわかるわけではありません...。

 

でもその感想を大切にするのもまたありかなと思います。

それでまた気づく魅力もあるだろうし、これから先きっとまたリベンジすることもあるでしょう。

文学はただの文章ですが、その分一つ簡単に説明できるものではないことは百も承知のつもりです。

 

 

とりあえずはまた続きを読もうかと。

 

 

【長編】『西海原子力発電所』井上光晴

井上「靖」だと思って図書館で借りた本でしたが、私の空目でして、井上「光晴」でした...。


井上光晴の名前は聞いたことがあったのですが、彼が作家という認識も朧げなものでして、実際手にとって数ページ読み進めて、そういえば井上靖ってどんな作家だったっけなと著者プロフィールの欄を見ると、あれっこの人違う人だと気づいたわけです。

 

そんな自らの辱めを晒しあげながら、井上光晴の長編小説についての感想を書きます。


上記の通り、井上光晴の本は初めて読みました。テーマは原子力発電所が関わることによる社会問題や、原爆による被曝者についてのものです。

 

なんせテーマがテーマなので、ある意味わかりやすいところもあったりします。

 

今でこそ原発というものは、東日本の大地震も記憶に新しく、日本という国に住む私たちにとって切り離すことのできない深い問題です。
私たちの生活を営む上で、効率よく利用できるエネルギーにあやかったままの生活が当たり前になりながらも、裏では私たちの生活が常に放射能というリスクを背負っている。
戦後の日本が復興していく中で、経済や文明の発展を目標として一致段階めいた形で科学の力にも頼らざるを得ない。

 

しかし物事の理のように、どんな便利なものでも、その裏の顔というものは必ずしも存在するようで、そして裏というものはそうそう簡単に多数派には理解されません。

 

今回の作品では、小さな港町に起こった放火事件が原発などの利権が絡んでおり、それが奥底のない人の歪みのようなものとして現れているように私は感じました。

 

原発をテーマとして、仕事や家庭が脅かされる夫婦や、原発に対して反対することすらも押し黙られてしまう強大な利権、もしかしたら被曝したせいで患っていた人も、医者を含めて誰も認めようとしない、そんないざこざめいた形が多く募っています。

 

しかしそれでも、少し登場人物がわちゃわちゃと多すぎて、一体誰を軸に読めばいいのか、わかりづらいところはありました。

 

再読するとまた印象が変わるかもしれませんが、ストーリーとして楽しむところよりも、文明の利器から生じる裏側の生活を垣間見るには、いい小説なのではないでしょうか。

 


では。

【中編】『セブンティーン』大江健三郎

 

 

皆さんは17歳の頃の、自分の感性や価値観を覚えていますか?

 

私はなんとなくあんな感じだったなとか、その当時の情景を記憶から掘り下げたときの独特な懐かしさから思い出せるものもあります。

 

10代といえば皆さんもご存知、多感な時期の真っ最中で、10代独特の感覚の不安定感や、喜怒哀楽のコントロールの難しさなどに悩まされる人も多いのではないでしょうか。

 

そして時が進んでいくごとに、それらは少しずつ塗りつぶしていくようになくなってしまい、大人の人格が形成されます。

 

よく10代は羨ましい、またあの頃に戻りたいと言った声を多々聞こえてきますが、私は戻りたいなんて露も思ったことはありません。

 

思い出すほどに、青春の日々というのは、小難しい自分が浮き彫りになっていくばかりで、自己責任もなければ自由もまた狭まっている世界、羽を伸ばして生きていくことの難しかった世界が垣間見えるのです。

 

今回、大江健三郎の『セブンティーン』には、私の持っている青春とは少し違う形で、そして羨ましいものでもない世界となっております。

 

自瀆にふけ、政治的な思想を持て余し、あらゆる劣等感を携えている主人公。


そんな彼が、看護師として働いている姉と政治についての話で喧嘩をしたり、体力テスト中に小便を漏らしたり、学力テストで居眠りをしたりと、なかなかうまく軌道に乗ることのできない学生生活を送っています。


鬱屈したコンプレックスに政治思想を交えた彼の内面が、その政治思想を生かすことによってコンプレックスを打破し、新たな自分に生まれ変わる物語です。

 

これを読んで思ったのは、やはり若者というものは、いつの時代も、何かパワーを持て余しているものなのだなと感じました。

 

そんな、どこかパワフルで繊細で小難しい主人公の独壇が続く小説、是非読んでみてはどうでしょうか。

 

 

では。

【中編】『飼育』大江健三郎

 

このブログをはじめた頃の話です。

 

 


私は大阪市の1番大きな図書館で、
文庫本にして800ページはありそうな、
大江健三郎の自選短編集を借りました。

 

 

今回はその作品集にある一つをとりあげ、

大江文学の初期の作品、『飼育』について語ろうかと思います。

 


この作品は大江健三郎がまだ
作家デビューしてまもない頃のものでして、
同じく初期の短編である『死者の奢り』とともに代表作として挙げられます。

 


この作品は芥川賞受賞作となりました。
大江健三郎がまだ23歳の時に連載が始まったものです。
20代前半の時点で芥川賞レベルのものを作り上げた大江健三郎の才能や知識量は凄まじいものです。
文章にも卓越さが感じられます。

 


短編の『死者の奢り』は

大学生の物語でしたが、
今回は少年がある事件を

経て一皮剥けた大人になる、

その過程の物語が描かれています。

 


舞台も、大学の解剖室から、戦時中の国の山奥にある集落に変わります。

 


この山奥の集落的な土地を、
大江文学内では「谷間」と表現され、
度々彼の長編作品の舞台として扱われます。

 

 

元々が森林面積の高い
四国出身の大江健三郎にとって、
山というのは彼にとって
大きな価値観を占めるみたいで、
ことあるごとに物語の舞台となります。

 


ただ今回は四国を舞台にしたものなのか、
その表現もなされておりません。
おそらくは日本のどこかであり、
主人公の少年たちは、自分たちの閉鎖的な
コミュニティである村の中で暮らしています。

 


閉鎖的であり、
近くの町の住民からは少し疎まれている、
そんな小さな世界が舞台です。

 


なので私たちが思い描くような、
少年らしい思い出とは少し違い、
戦争中などの舞台背景もあって、
甘酸っぱいものはかけらもありません。

 


当然といえば当然ですが、
前回読んだ小川洋子
博士の愛した数式』とは何もかも違います。

小川洋子のさっぱり感、
人々の温かみ、
日常の紆余曲折、
そんなものは一切ありません。

 

 

ここにあるのは
人間の動物的な生々しい臭い、
血や排泄物、
汗ばんだ黒人兵の肌感触などで、
それらは決して退けられることなく、
大江健三郎の芸術として
堂々と表現されます。

 


読む人によっては汚いものとして、

簡単に処理されてしまうものですが、
私はこの排他されてしまいそうな事象を
少年の成長物語の一つに統合しているところに、文学の可能性を感じました。

 

 

この感じは村上龍の文学にも通ずるもののように思います。

 


村上龍も最新ご無沙汰なので、
また読もうかなとも思いますが、
しばらくは大江健三郎の短編レビューが続きそうです。

 

 


それでもよければ読んでくだされ。

では。

【長編】『博士の愛した数式』小川洋子

 

 

このブログを開設してから、ひたすらに近代文学のレビューが多かったので、21世紀の小説について語ろうかと思います。

 

 


というわけで、今回は小川洋子です。このブログでは初めての女性作家ですね。

 

 


現代の女性作家といえば、恩田陸宮部みゆき角田光代などがあげられます。

 


小川洋子もまた彼女らと同じく代表的な女性作家ですが、自分は今回初めて彼女の作品を読みました。

 

 

女性作家といえば書き手としての目線もまた男性とは違っており、

今回の作品だとシングルマザーである主人公の視点や、

親子としての日常的なやりとりなど、

基本登場人物の行動は互いが助け合い、

愛情を分かち合う、そんな温かみが強く出てくる傾向にあると思います。

 

 

反対に男性作家といえば、どちらかといえばテーマに忠実であったり、どこか野心めいていたりと、人々の触れ合いはあくまでそのテーマに沿った通過点でしかないイメージです。

 

 

 

博士の愛した数式』は、記憶障害を持った天才数学者である老年の博士と、その家に家政婦として雇われた主人公がはじめはお互いに戸惑いながらも、少しずつ絆を深めていくストーリーです。

 

 

結局、博士の80分ごとにリセットされる記憶障害はなんだったのか、

 

主人公と博士の義姉との激しい言い争いに対して博士が提示した数式はどういう意味があったのか、

 

博士はどうしてルート(主人公の息子)の誕生日が終わった後に入院することになったのか、

 

色んなところで疑問が湧いてきますが、あくまでもこの小説にはそういった事象の出来事を解説することなく、主人公の一人称で話が進みます。

 

 

おそらく著者はこれからの説明が話を進めていく上で野暮ったくなるのを避けたのだと思います。

 

 

 

話としてもちょうどいい長さですし、最後は少し駆け足気味ではありましたが、普段読書慣れしていない人にも勧められそうな一冊です。

 

【短編】『刺青』谷崎潤一郎


谷崎潤一郎の短編小説です。

 

 

谷崎潤一郎の文学作品での基本的なコンセプトは、小悪魔的な女性についてのものが多いです。

 

 

妖しく繊細な美人が男性を食い物にし、弄ぶsadisticなシーンが目立ちます。

 


そこには谷崎が一種のフェチズム的な考えを女性に抱いていたのかもしれません。

 

 


『刺青』は谷崎の初期の作品になり、まだこの段階では悪女めいた物語の感は薄いです。

 

 


しかしこの段階で、女性の蠱惑的な魅力、無骨な男性にはたどり着くことのできない魅力を文学として表しています。

 

 

このレベルの作家にしては珍しく、世の諺や真理、哲学などを語ることは極めて少なく、谷崎潤一郎のコンセプトは耽美的な華やかさです。

 

 

数分で読める名作なので、谷崎潤一郎がどんな作家なのかを知るいいきっかけになるかと思います。

 

 


では。