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小説の感想、解説を書いていきます。

【短編】『恐怖』谷崎潤一郎

とても短い谷崎潤一郎の短編小説です。

 

 

1913年に大阪毎日新聞に掲載されたようです。

 


内容は至って簡単。

 

谷崎と思しき主人公が、乗り物酔いに対しての苦悩と恐怖を抱いているという、令和の現代からすればある意味滑稽な内容に見えなくもないです。

 


この話の感じからするに、当時はまだ乗り物に酔うという症状が世間では知られていなかったのでしょう。

 

 

谷崎が巧みな文章でそれを表しています。

 

 

そして、世間一般に知られていない乗り物酔いを、どう人々に説明したらいいのか、そんな自分だけの苦悩が閉塞的に語られているのです。

 

 

自分のことのように考えると、自分だけが車や電車に乗ったときに、独特の吐き気やムカムカを感じても、それを分かってくれる人がほかにいない。

 

 

それはまさしく恐怖なのかなと思います。

 

 

現代ですらも、まだ浮き彫りになっていない病はたくさんありそうですし、気まぐれめいた精神の変化や、これって自分だけかも...と思っている身体の症状も、近い未来病気扱いされるのかもしれません。

 

 


それにしても谷崎潤一郎は文章が上手いなあ、と改めて思いました。

 

【短編】『杜子春』芥川龍之介


芥川龍之介といえば、『羅生門』を始めとし、教科書にも採用される比較的読むのに苦労しない短編が多いイメージです。

 

今作も昔の唐の国を舞台にはしていますが、わりと読みやすく、子どもにも読めそうな内容です。

 

主人公である杜子春は、貧困に陥っている自分に救いを差し伸べる謎の老人のアドバイスを受けて、富豪の生活を手にします。

 

一気に金持ちへと変わった彼は、散財によりまたもや貧困へと戻ってしまいます。

そして、貧困になった彼の前へ再び老人がやってきて、言われるがままに従い、またもや金持ちへと変わりますが、また散財により逆戻りです。

 

杜子春は、その繰り返しの中での人との関わりによって、人の強欲さや冷酷さを悟ります。


金持ちの自分には寄ってたかる者たちが、いざ自分が貧困になると相手もしてくれない。

 

結局杜子春は老人の手にあやかることはやめて、そして老人の正体が仙人であることを見抜き、彼の元で修行をさせてほしいと頼みます。

 

しかし、仙人になる修行は彼の恐怖心や罪悪感をくすぐり、苦しみに晒されていきます。

 

彼は両親への罪悪感から仙人への道を諦め、貧困に戻りますが、仙人の修行は決して無駄ではなく、彼自身を人間として成長させたのでした。

 

この話は、目的のために全てを捨てることが愚行だということを比喩しているように思えます。

 

杜子春は目の前で虐げられる両親(幻想)を無視することができませんでした。

 

あのまま彼が修行を成功させていたとしても、彼には救いの手はなかったでしょう。

 

日本では努力や根性を尊重する、わけのわからない文化が根付いています。

 

私自身、根性や努力は嫌いではないですが、ただ闇雲に一辺倒に努力を重ねても何も得られないものでしょう。

 

自分で考え、選択する力があるからこそ、いざと言うときに努力や根性が輝くはずです。

 

シンプルな教訓として読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

【短編】『日々移動する腎臓のかたちをした石』村上春樹

 

 

村上春樹の『東京奇譚集』の第三作目です。

 

前回、前々回と引き続き村上春樹のレビューをすることになります。

 

久々に読むとやっぱり面白い村上春樹

 

読みやすい文章に、何気ない現実。そこにほんのりミステリアスな雰囲気を携えた世界が魅力的です。

 


村上春樹の文学に、あからさまなファンタジーの要素はほぼないといってよいでしょう。

 

始まりから中盤まで、容易に想像できそうな日常が続きます。

 

今作は小説家の主人公が、人生において大きな意味を占める女性に出会う物語です。

 

「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という格言から物語は始まります。

 

その言葉を父親から聞かされた主人公は、今作で知り合った女性に対して、その「本当に意味を持つ女」として相応しい存在であることを自覚するのですが、それに自覚したのはすでに女性が目の前から去った後で、彼女が消えてしまってからは、淡い焦燥感に満たされてしまう。

 

そんなお話です。

 

 

主人公が女性と出会い、彼女の職業が何かすらも知らない、あまり素性の知れない存在でありながらも、主人公の中では大きな意味を占めていく。

 

それと並行して、彼は自身の小説を書いていくのですが、その現実とは交わらない二つの世界が、どことなくリンクしそうなものに思える不思議があります。

 

あらすじを彼女に話し、彼女とたびたび出会い、身体を重ね、小説を書き上げていく。

 

そして最終的な完成を目前にして彼女は消えてしまうのです。

 

まるで主人公の小説の完成を待っていたかのように。

 

 

主人公が描く物語には、登場人物の女医が拾った腎臓の形に似た石がキーアイテムとして表現されています。

 

部屋に置いてあるだけの石が、まるで自我を持っているかのように、いやむしろ彼女の無意識を反映しているかのように、彼女のいない間に部屋を移動しているのです。

 

そして彼女はあるきっかけからその石を捨てるのですが、石は再び彼女の部屋の中で待ち構える。

 

そんな物語となっています。

 

 

小説を書く主人公が、物語の完成を迎えた時に消えた彼女。

 

小説の中の女医が、あるきっかけの中で石を捨ててもまだ戻ってくる、捨てられない存在。

 

この二つの流れには交わりのようなものを感じざるを得ないのですが、しかしその答えは容易ではありません。

 

村上春樹特有の、得体の知れない、人智の及ばない因果が巡っているようです。

 

 

 

短編としてよくできていますが、個人には長編作品として描かれてもいいものに思えました。

 

 

【短編】『ハナレイ・ベイ』村上春樹


昨日に引き続き、村上春樹の短編を紹介します。

 

タイトルにありますハナレイとは、ハワイのカウアイ島の町の名前だそうです。サーフィンやフラダンスが盛んな町で、日本でもサーファーがよく訪れるところとなっています。

 

今作はそのハナレイが舞台となります。

 


ハナレイで息子を亡くした母親が、現地へ向い、さまざまな人と交流をして、日本に帰ってくる。

その中で風来坊だった息子のことや、勉強をしながらもドロップアウトしてピアノに専念した若い頃の自分を思い出していきます。

途中で息子ほどの年齢の日本人の若者二人組に出会い、何も知らないで日本から来た彼らに対して、やれやれといった調子で彼女は手助けをします。

 

 

村上春樹の小説らしく、文章は軽々しいようなもので、ビーチを舞台としたことも相まって読みやすいですが、どこか得体の知れないような影もまた垣間見えます。

 

 

面白い短編小説全般に言えることですが、やはり文章に冗長めいたところはなく、はっきりと伝えたいところ、曖昧な答えのないところも無駄がありません。

 

 

現代の短編純文学のお手本といったところでしょうか。

 

 

村上春樹らしい話ですが、生々しいセックスのシーンなどはありませんので、これまた村上春樹初心者におすすめの物語です。

 

【短編】『偶然の旅人』村上春樹

現代において、日本で代表的な作家を一人挙げるとしたら、村上春樹の名前は候補になるのではないでしょうか。

私たち20代の人間でも名前くらいは聞いたことある人は多いかと思います。

巷ではノーベル文学賞を受賞するのではないかといった、そんな噂も流れている日本を代表する作家です。

 

 


私たちよりも上の世代の人間には村上春樹の凄さがわかるかもしれませんが、いかんせん私たちの世代ではその凄さが伝わっていないように感じます。

読書を始めたての人が、村上春樹の名前を知り、代表作である『ノルウェイの森』を読み始めて、よく分からないままに読み終えてしまう、そんな流れが予想されるわけです。

実際、私もそんな流れで村上春樹を知りました。

そして特別熱中することもなく通り過ぎたのです。

 

私が村上春樹の凄さを知ったのはもっと別の長編作品になるのですが、その話はまた今度で。

 

 

 

今回は短編作品である『偶然の旅人』を紹介していきたいと思います。

村上春樹の文章は、少しクセがあると思う方もいるかもしれませんが、基本的にはそうそう読みづらい形にすることもなく、割と素直に表現しているので、おしゃれに聴こえがちなワードセンスに煙たさを覚えなければ大丈夫です。

村上春樹に対しての世間イメージは、「おしゃれなジャズを聴きながら毎日パスタを食べる主人公が出てくる話ばかり書いている作家」というものになりがちですが、いや実際そうなのですが、私としてはもっとシビアな村上ワールドにスポットライトが当たって欲しいと感じております。
そんな村上春樹ですが、彼の短編小説は個人的に大好きだったりします。

長編は長編でまた面白いのですが、短編はまた別の味があります。

『偶然の旅人』は、短編の中でもまた特に読みやすく、村上春樹には珍しくオチがはっきりしている作品です。

 

 

作者本人が読み手に直接語りかける場面から始まり、この話がノンフィクションであることを前提として説明した上で物語へと導入されます。

そして村上春樹自身が知人から聞いた、偶然が醸し出した奇跡のような出来事についてのエピソードが語られるのです。
偶然というものが、ただの巡り合わせの産物でしかなくとも、どこか因果的な運命として着目せざるを得ず、私たちの心に不思議なときめきをもたらします。

俯瞰してみるとただの自然の成り行きの一つなのですが、その偶然の出来事から繋がるドラマチックなものが、人の感動を呼ぶのです。

 

 

この話を50ページほどでまとめられている、その作者の手腕もまた魅力的ですし、村上春樹という作家を知る上でもおすすめの作品です。

 

個人的にはノルウェイの森よりも初心者におすすめでございます。

 

 

是非読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

【短編】『空の怪物アグイー』大江健三郎

 

 

小説には、その作家が強く意識しているものが物語によく登場します。

 

たとえば浅田次郎でしたらギャンブルが好きですので、パチンコ屋の店内とか、競馬場とかが場面として扱われるイメージです。

 

小川洋子の『博士の愛した数式』を読むと、あからさまにこの作者は阪神タイガースを贔屓にしているのだと明白になります。

 

そして、今回もまた大江健三郎の短編について語るのですが、彼の小説では度々、脳に腫瘍を患わせて産まれた赤ん坊が登場します。

思いつくものといえば、長編作品の『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『新しい人への手紙』などでしょうか。

 

これは、大江健三郎自身の体験に基づいているらしく、彼の息子の大江光が脳ヘルニアを患って産まれてきたことからきていると考えられます。


今作品では、主人公の雇用主である、空からカンガルーほどの大きさを持つ怪物が降り立つ妄想に囚われている、音楽家のDという男の過去に、その赤ん坊の悲劇が描かれています。

 

赤ん坊は、まるで頭が二つあるのかとも思われるほどに腫れ上がった腫瘍を持って産まれました。この巨大な脳腫瘍が赤ん坊が助かる見込みがないことを悟らせます。

そして最終的には赤ん坊を安楽死することにしたのですが、なんと腫瘍は手術すれば治る可能性があった症状のものだったのです。

Dにはその時の記憶がトラウマのような形に残っているらしく、空から怪物が降り立つ妄想に囚われているのです。


学生である主人公は、そんな彼の付き人として雇われ、物語が展開していきます。

 

結局その怪物の正体は、死んでしまった赤ん坊をモチーフとした存在です。

その架空の存在に対してレスポンスを返すDは、現実での人との交流があやふやで、面倒をみる看護師や主人公に対しても反応が希薄だったりします。

彼は現実に生きている意識も薄く、自己防衛のような形で妄想の怪物に取り憑かれているのです。


過去のトラウマや罪悪感が、今の顕在している意識に強く起因してくる感覚は万人が持っているも過言ではないでしょう。

アドラー心理学の面では、トラウマに対しての否定的な意見が割と目立ってはいますが、私個人としてはあまり賛同できなかったりします。

 

私たちは過去に生きた形跡を記憶として保持しています。


昔のことでもはっきりと覚えていて、それが今の自分に影響を与えていることもあれば、自覚することの難しい、記憶すらもあやふやな幼い頃の出来事が今でも自分を蝕んでいることもあり得ると思うのです。


私もきっと持っていることでしょうし、しかし何が原因で、今の苦手なものがあるのか、それは定かではなかったりするわけです。


今作では意識のはっきりしている成人の男性が被ったトラウマになるので、その原因もはっきりとはしているのですが、その出来事自体が重い内容となってますので、払拭することが難しいものになっています。

 

最終的にDはこの妄想に取り憑かれた自分に対して、ある一つの選択を下すのですが、それは読んでみてからのお楽しみということで。

 

では

【長編】『コインロッカーベイビーズ』村上龍

 


多忙により読書をする時間がまともにとれないということで、昔愛読していた小説を語っていこうかと思います。


村上龍が作家デビューしてまもない頃に執筆したこの『コインロッカーベイビーズ』ですが、話の内容や、1972年頃に社会問題となっていた、産んだ赤ん坊をコインロッカーに置き去りにする「コインロッカーベイビー」といわれる事件の影響もあって、発表当初は話題になりました。

 

私が今作を読み始めたきっかけは、the pillowsのGazelle cityという曲のタイトルが、今作品の登場人物から肖ったものと知ってからです。

 


私はthe pillowsがかなりお気に入りなのですが、このバンドのボーカル、山中さわおが高校の頃にコインロッカーベイビーズを愛読していたという話を聞いて、当時学生だった私も読んでみることにしました。

 


『コインロッカーベイビーズ』では、村上龍の文学センスが全体に行き渡る、グロテスクと退廃にまみれた少年たちの成長が延々と続いていきます。

 


そのストーリーには幸せも不幸もない、無味乾燥な具合が独特の魅力を醸し出しています。

 


コインロッカーに捨てられたキクとハシは、母親に抱かれた経験のなさから、大人へと成長していきながらも社会の歯車に馴染むこともありません。ただひたすら己の求めるものに従うままに、暴力に走ったり愛人と身体を重ねていきます。

 

 

村上龍の文章は、かなり単調なリズムがひたすら続きていくものですので、読む人にとっては退屈に感じるかもしれません。

 

舞台や情景はめまぐるしく変わっていくのに反して、文章の調子はただ冷静なまでで、ある意味温度差があります。

 

それがまた『コインロッカーベイビーズ』の色褪せた世界観に拍車をかける形となっているように自分は感じるのですが、書き手としてのテクニックをあえて殺している、まさに神の視点からの実況ともいえそうです。

 

初めて読んだ時は謎の空気感とストーリーの展開に、頭の方が付いていけなかったです。

 

一体この本の面白いところはどこなのか、何を伝えたいのか、そもそもこの小説のジャンルは?謎に満ちたこの作品をとことん疑い、色んな考察を重ねていたものです。

 

結局この作品に限らず、文学作品に最良の答えは用意されていません。ジャンルというものは「敢えて」分類されただけにすぎず、どう読んでいくのかは読み手の自由だったりします。

 

『コインロッカーベイビーズ』はそんなことに気づかせてくれた作品です。

 


私はいつも、暑苦しい夏の日にこれを読みたくなります。

 

『コインロッカーベイビーズ』に描写される、廃墟となった炭鉱の街や、蒸し暑い東京の摩天楼、小笠原諸島など、ジメジメした爽快感のない夏のイメージが強いからです。

 

それに加えて、村上龍の文章がまた湿度を増すように暑さを感じさせてくれるのです。

 


今年の夏もまた読もうかと。